夷王山頂上にある夷王山神社を最終目的地として、夷王山への散策路を歩いている。
経路は上図の黒線となる。
この道を、散策路に自生している植物の説明をガイドから聞いたり、山麓から見える上ノ国の絶景を楽しんだり、蝦夷地の和人の軍事・政治・北方交易の拠点となった勝山館の当時の出来事などを詳細にガイドから聞いたりしながら歩いている。
ガイドは自生植物に詳しく、さっそく道の脇の植物の話となった。
この植物は「蛇登らず」という植物で、別名は「鳥とまらず」、トゲがあって蛇が登れず、鳥がとまれないのだとか。
「なかなか役に立つ植物ですね。」と僕は相ずちをうった。
後日ネットで調べたが、日本特産のメギ科の落葉小低木でとげがあり、長倒卵形の先端のとがった葉の縁にも小刺毛が密に並んでいるという。
散策路の登り口は手すりや石段もあり、歩きにくいということはなかった。
ここを登りながら、ガイドの話は松前氏成立時代の核心部に入っていく。
ガイドの話はどうやらコシャマインの戦いのようである。
当時、和人は既に渡島半島から道南に進出しており、製鉄技術を持たなかったアイヌと鉄製品などを交易していた。
アイヌの男(少年という説もある。ガイドは少年と言っていた。)が志濃里の鍛冶屋に小刀(マキリ)を注文したところ、品質と価格について争いが発生し、怒ったアイヌがその小刀で鍛冶屋の男性を刺殺したのが戦いのきっかけである。
事件の後首領コシャマインを中心にアイヌが団結し、1457年5月に和人に向け戦いを開始した。
アイヌ軍は進撃を続け、和人の拠点である道南十二館の内10までを落とした。
残ったのは下ノ国の茂別館と上ノ国の花沢館だった。
コシャマインの戦いの際に花沢館の館主蠣崎季繁の下に客将として来ていたのが武田信広だった。
武田信広によってコシャマイン父子は弓で射殺され、アイヌ軍は崩壊した。
このコシャマインの戦いで功をあげた武田信廣は蠣崎季繁の養女である安藤政季の娘を妻とし、洲崎館を築いた。
その後信広は夷王山の麓により強固な勝山館を築いたが、この館は一度も中央突破されたことのない難攻不落の館だと説明した。
そしてここが難攻不落と言われた勝山館の四ヶ所ある見張り場の中の第二の見張り場で、ここから見ると確かに上ノ国全体が良く見えた。